被災者の子どもと放射能について話すときにNPO法人沖縄・球美の里(久米島)理事長 広河隆一(これは子どもに対しての文ではありません。それはいつか書きたいと思います。これは私がこれまで考えてきたことの一部です。全国で被災地の子どもの保養や甲状腺検診などのために支援されている人々や、こうした問題にぶつかっている方からの、ご感想、ご報告をお待ちしています)
放射能の被害にあった子どもに対する心理ケアについては、専門家の間でもきちんとした対応ができていません。チェルノブイリ現地ででも同様です。
ここで私の経験から、考えを述べます。福島から来る子どもたちと、被曝や放射能の問題についてどのように話すべきか、あえてしないほうがいいのかという問題を考え直す、ひとつのきっかけになればと思います。
私はチェルノブイリの救援の経験から、子どもたちが、自分の体の中に放射性物質があることを知らされることと、大気や大地が汚染されていることを知らされることでは、全く違う反応をすることを何度も思い知りました。
自分の体の中に放射性物質があると認めた子どもは、成長とともにそれをいっそう深刻にとらえるようになります。それがいつかがんを発症するのではないかという不安は、子どもが思春期を迎えるにあたって、膨らみます。私は「がん」という言葉を「死」と同義にとらえる子どもに多く出会いました。その子にはそれは考えすぎだと言い聞かせますが、その子の不安は長く続きます。私たちの行っていたチェルノブイリ救援運動の力では、一人の子を長期間見守ってあげることはできません。
こうした状況の中、私たちはチェルノブイリの救援活動の時には、子どもがすでに放射性物質に侵されているとか、がんになっているとかいう言葉は、子どもの前では一切使わないように厳格に守ってきました。通訳にもまずそのことを徹底しました。通訳によっては、こちらが「腫瘍」と言っているのに「がん」と訳す人も多いからです。企画の名前も「甲状腺の手術をした子どもたちの保養プロジェクト」とし、「甲状腺がんになった子どもたちのプロジェクト」とはしませんでした。この差がどれほど大きいかは、実際にこのような状況にある子どもに対応した人でないとわからないでしょう。これらの子どもたちは、自分が手術をしたことは知っています。しかしがんとは思っていないのです。
もちろん手術した子のすべてが、がんだったわけではありません。良性腫瘍の場合も非常に多くあります。手術の結果は保護者に伝えられますが、たとえそれががんだったとしても、多くの場合親は子どもに良性腫瘍だと伝えます。念のために手術したと言うのです。しかし子どもがカルテを見てしまうケースも多くあります。「どうしたらいいかわからない」と泣く母親にも多く出会いました。
私はチェルノブイリで何千人もの子どもたちの甲状腺検診に立ち合いました。それは私たちが支援して行う検診だったからです。ベラルーシの保養所では血液検査なども行いました。検査を嫌う子どもも多くいました。子どもに聞くと、「だって検査をしたら必ず病気を見つけるじゃないの」と泣きじゃくります。この子には無理に検査をしませんでした。
そして被曝した子どもは、思春期を迎え、手術をした子どもは体の手術跡(首に傷が残るので、「チェルノブイリの首飾り」と呼ばれることもあります。体質で跡が大きく残る子がいたり、昔の手術は大きく跡が残る子が多かったのです)を誰にも見られないように、タートルネックのセーターや、大きな首飾りで隠し、人前に出ないようにして、プールの授業は休むといいます。やがて恋人ができても、相手の親戚や親から反対されることがあります。そしてその間もがんが発症しないか、転移しないか不安にさいなまれ、結婚したとしても今度は無事に健康な子どもを産めるかどうか、そして産んだ子どもが健康に成長できるかどうか、一生不安はつきまとうことになります。これは特に甲状腺の異常が見つかった場合に多いのです。
子どもたちは大きくなるにつれ、放射能は時限爆弾のようなもので、いつ牙をむくもわからない、そしてその時限爆弾も1つではない可能性があることを残酷にも知ります。
1000人の学校に1人の小児甲状腺がんが出るということは、100万人、あるいは50万人に1人と言われるこの病気が、1000倍、あるいは500倍に拡大している可能性があることになります。私たちは1000人に1人だから心配しないでいいと考えるかもしれませんが、子どもたちは、次は自分の番ではないかと恐れるのです。そして中には亡くなる子どももいることを知ったとき、親は日々子どもを落ち着かせて、楽しいことだけに意識を向けようとしますが、なかなか成功しません。
一時的に対応しても解決できず、長期的に子どもたちを支援していく長いケアが必要になります。子どもたちは、自分をずっと守ってくれる人間を必要とします。私たちの沖縄・球美の里はそのほんの一部の活動を担っているにすぎません。
こうした不安におびえる子どもたちを、私は20年以上のチェルノブイリ救援活動で、何千人と見てきました。その多くの子どもの手術に付き添い、絶やしてはいけない毎日の薬(ホルモンのバランスが崩れてしまうからです)を日本から送り続け、早期発見の機会を増やすために、超音波診断機を贈ったり、医師や看護師の給料を支払ってきました。私たちが行うまで実行されなかった、病気の子どもの保養も実現させました。
ある少女は、手術室に向かうとき保護者が立ちあえませんでした。気丈にしていた彼女は手術ベッドに横になったとき、泣き出しました。このまま自分は死んでしまうのではないかと言うのです。手術は成功し、発見が早かったため、がんの転移はなかったようです。その後私たちは、この子には薬の供給を続け、毎年会って家を訪ね、ベラルーシの保養センターで夏を過ごしてもらいました。当時日本が保養費用の4分の一を出していたこのセンターでは、放射能のことを忘れ、楽しいことだけをさせるという生活を心がけました。日本から多くのボランティアが行って、踊りや武道や茶道で楽しませました。
この子はやがて結婚し、赤ちゃんを産みました。彼女は、手術室で彼女の手を握っていた私の手が暖かかったことを覚えていると言ってくれました。チェルノブイリで救援を続け、日本で保養所を建設運営したいと考えたのは、こうした経験があるからです。しかし私は、手術の成功、結婚、出産と、さまざまな問題を乗り越えたと思われる現在でも、彼女が再び放射能が頭をもたげないかという不安を払しょくできていないことを知っています。
また別な子がいます。その女の子は14歳で病気が見つかったときには、甲状腺がんは全身に転移していました。医者から見放され、私が訪ねた時には、痛みとたたかう日々でした。そして2か月後に亡くなりました。助かるはずの子どもでした。だから私は日本の福島県の甲状腺検診のありかたが楽天的に過ぎると批判しています。批判だけでは解決しないので、久米島に保養に来た子どもたち約300人の甲状腺検診をし、福島県の放射能市民測定室たらちねの甲状腺プロジェクトの顧問にもなり、これまでに計1200人を超える子どもたちの検診を行いました。6月には関東のホットスポットでも検診を行います。
チェルノブイリでその後に出会った少女は13歳でした。甲状腺がんは圧倒的に女性に現れます。彼女は白血病も併発していました。彼女と父親が住んでいた村の上を、事故直後に放射能雲が通りました。父親はがんで亡くなりました。
彼女は病院を出ても部屋に閉じこもり、学校にも行かなくなり、生きることの希望を見失っていました。この子とはその後数年間付き合うことになりました。その間に数十回彼女を訪れ、家から連れ出したり、勉強の機会を与えました。彼女は外語大学の日本語科に入学を果たし、かつて彼女の生存の可能性は低いと言っていた医師は、危機を脱したと言ってくれました。彼女は今大学で教えています。
こうした経験を持つ彼女ですが、今でも自分が放射能の問題を抱え込んでいることを意識しています。薬は飲み続け、定期的な検査を受けていますが、病気のことは思い出したくないと言っています。そのため私はかつて彼女を取材して発表した素材を封印しています。
こうして考えると、津波や地震の被害にあった子どもと、原発の被害にあった子どもに対する対応が異なることをわかっていただけると思います。
広島や長崎では、本格的な心理ケアがなされた例を知りません。チェルノブイリではなされました。私たちがその資金を出したのですが、保養所に心理ケアの専門家が入りました。しかし当時ベラルーシやウクライナには、臨床心理学の専門家はおらず、欧米からもたらされました。しかし放射能で被災した子どもにどのように対応するのか、学者たちはゼロから始めなければなりませんでした。ただ子どもたちを楽しませるプログラムは、すでに以前から保養センターで行われ、大きな成果を上げていました。
私は久米島の「沖縄・球美の里」の施設そのものが、壮大なセラピーの役割を果たす現場だと考えています。バーデハウス(海洋深層水の施設)に1度行って、子どもの皮膚アトピーが目に見えて改善されたと大喜びで伝えてくれた母子は何十人もいました。それから毎日のように通った母子を知っています。この子は手術をした子でしたが、成果を上げて島を離れました。
久米島の山や海は、人間の力を越えて、子どもたちを癒してくれます。できればデトックスという言葉も子どもの前では使わないようにしたいと思います。体内に放射性物質があって、それらを出さなければならないということになるからです。
久米島の自然に加えて、球美の里では、スタッフやすばらしいボランティアの方々が、子どもたちのためにさまざまなプログラムを組んでいます。地元のお母さんたちを交えた厨房では、久米島の食材で豊かな食卓を準備しています。保護者の方も子どもたちも、私たちがみんなの健康のことを一生懸命考えていることはわかっていただけると思います。
被曝の問題を話題にしなくていいと言っているのではありません。体内に放射性物質を取り込まないように子どもたちに教えることは大切です。ただもうすでに放射能物質を取り込んでしまっているというふうには、子どもに話さない方がいいと思います。
私たちは原発事故の後、多かれ少なかれ、体内被曝しているでしょう。しかしそうしたことにつながる表現は、子どもに対しては行わないことにしたいと思っています。
子どもだけではなく、保護者の方でも、被曝や放射能の話題になると、取り乱してしまう人もいます。だから私たちのスタッフが相談を受けても、「放射能や甲状腺の病気のことは、まだよくわかっていないらしいのです」と答えるようにと言っています。専門家にわかっているわけではありません。「安全宣言」をした専門家たちはみんな重大な過ちを冒しました。彼らの行う甲状腺検診に対しても、不信をいだく保護者が多いため、私たちは検診を始めました。何よりもデータが手渡されないことが不安を増長させています。
保護者の方が一喜一憂する甲状腺ののう胞についても、私たちと政府や県との間の見解は食い違っています。安全基準もそうです。
私たちは自分たちの主張が正しいと言うことをここで述べるつもりはありません。ただ、子どもや保護者の多く(特に母親)の心が、原発事故の後、非常に繊細でもろい状態になっていることを、たえず心の隅に置いてください。「安全宣言」を繰り返すだけでは、人々の不安は解けません。
保護者から放射能や汚染の相談をもちかけられたら、「放射能はまだわからないことだらけだから、もしものことを考えて、このような施設を作って、子どもたちに免疫力を付けてもらい、病気になりにくい体を作ってほしいと思った」と言うことにしています。それ以上のことは、聞き役になってあげることが大切です。
保養所では子どもたちを自然の中で遊ばせ、生活させ、久米島の食材を食べてもらうことを一番の目的にしたいと思います。放射性物質を体内から出すことを促進するためにも、リンゴなどを与えることでペクチンを吸収するというように、自然にやればいいと思います
子どもたちには、放射能のことを忘れさせ、自然に包まれて生活させ、思いっきり楽しませ、島の人の作った食材を食べさせ、免疫力をつけて病気になりにくい体を作ること、これが「沖縄・球美の里」建設の一番の目的です。
よろしくお願いします。
2013年5月29日
NPO法人沖縄・球美の里 理事長 広河隆一