しかし気になるところもある。障害を負った子どもたちが映し出され、「チェルノブイリ事故のせいですか」と取材者が聞き、施設の職員は「そうです」とうなずく。今から10年以上前、国内外の有力誌がいっせいに、「チェルノブイリで身体障害多発」という大見出しで、子どもたちの写真を掲載した。衝撃の報告だった。しかし私は驚いた。ちょうどその時期に、救援のため現地を何回も訪ねていたのだが、そうした話は聞いたことがなかったからだ。私は障害を負った子どもの写真を多く撮影したが、事故との関連が確信できなかったので発表しなかった。
次に現地を訪れた時、子どもたちの写真が掲載された施設を訪ねた。そこにはさまざまな障害を負った多くの子どもたちがいた。私は所長に「この子どもたちはチェルノブイリのせいで病気になったのですか」と尋ねた。所長は首を振った。「何人かはそうかもしれないが、ほとんどは関係ないでしょう。なぜならここには事故前から多くの子どもがいたからです。事故の後に1割ほど増えたかもしれないけれど」と言う。
雑誌や映画を見た人は、写っているすべての子がチェルノブイリ事故のせいで障害者となったと思ったはずだ。放射能はあらゆる病気の原因になる。遺伝子を傷つけるから出産異常も身体障害も引き起こす。だが、放射能の恐ろしさを訴えるためにこのような強調をしていいのだろうか。人は皆、健康でありたいと願う。親は子どもの健康を望む。けれども「身体異常の子どもができるから原発に反対だ」という言葉は、障害者に「自分のような人間が生まれないために原発に反対するのか。自分は生まれてはいけなかったのか」と考えさせるだろう。
原発は、あらゆる形の差別を引き起こす要因にもなる。それに取り込まれてはならない。(広河)
放射能の最も危険な要素は遺伝子への攻撃だと私は思っています。
心臓欠陥という特定の事象を強調するのが良いかどうかはともかくとして、障害者が可哀そうだから言わないでおこうという姿勢は、そこにこそある恐ろしさから目をそむけることであり、ジャーナリストの立場を放棄するものと感じました。
理解されていないと思います。
「障害者が可哀そうだから言わないでおこう」なんて一言も書いてないでしょう。そういう趣旨でもないでしょう。
むしろ、この映画は原発の危険性を主張するあまり、別の原因による障害もぜんぶそのせいだと思わせるような作りになっているし、障害による自立阻害もそのせいであるかのように訴えていると見えました。
福祉政策の遅れはまた別問題だし。
そもそも、障害を持つ人自身から撮影の了解を得る努力をされているのか、こういう類の映像にはいつも一種の違和感を持ちます。
広河さんの下記の部分に共感します。
けれども「身体異常の子どもができるから原発に反対だ」
という言葉は、障害者に「自分のような人間が生まれない
ために原発に反対するのか。自分は生まれてはいけなかった
のか」と考えさせるだろう。
実際にそう感じる人は多いです。
福島に関わる人の健康問題について、過剰にセンセーショナルな取り上げ方をする人たちにもいい気持ちはしません。
心配することと騒ぐことは違います。
危険性も、克服する方法も、冷静に検証しながら進むのでなければ、少なくとも現場の人の共感は得られません。
私は、何人もの障がいを持つご本人と親御さんたちと長くお付き合いをしていますが、皆さん障がいのことについては相当に重くご負担に思われてこられたことは事実です。でも、皆さんそうしたマイナス部分については、それはそれとして、なんとか乗り越えられて、いかに自分らしく生きていくかを考えておられます。もちろん乗り越えられない方も大勢いらっしゃると思います。将来をはかなんで親子で命を絶たれてしまった方も知っています。
放射能の影響ははかりしれず、少なからず胎児や子供の体に影響があることはそのとおりだと思います。でも、そのことのみをセンセーショナルにクローズアップしてしまうと、その先にあることがとても心配になります。つまり、障がいを持っていることがいけないこと。悪いこととされ、差別の対象になるということ。障がい児を生んだと母親が苦しんでいたら、きっと自分の存在に苦しむことになるでしょう。周りからも普通ではないという目で見られてしまうかも知れません。よく例えに上げられる言葉ですが、『あの子のようになっちゃうよ』などと言われたらどれほど苦しい思いをしなくてはならないか。もちろん障がいは無いに越したことはないと思います。
生まれてある存在として、仮に障がいがあっても尊い命を持った存在に違いはないのです。
ですから、障害を持つ子どもをセンセーショナルに取り上げるということが、その先に様々な差別を引き起こす要因になるのではないかと、広川さんが警鐘を鳴らされているのだと思いました。
3.11以降の
反原発派と言われる人たちの
狭量、独善的とさえいえる言動の数々には失望を覚えました。
広河さんのこのような訴えは
反・脱原発運動に血を通わせるためにも
とても重要なことだと思います
でも、人間が人間の遺伝子を傷つけることが、これと一緒になるだろうか?原発に寄る放射能汚染は傷害と同じではないのか?
先天的な障害者だけではない。後天的にも障害者になる。だから、交通事故を起さないように飲酒は避け、事故にあっても死なないようにシートベルトをする。
自分が事故にあったら、他人も事故にあえばいいのだろうか?
避けられる障害は避けるに越した事は無い。胎児には何も避けることが出来ない。胎児は大人を信じて生まれて来るのだ。我々を信じて生まれて来る子供達の為に、避けることが出来るなら避けるべきだ。
その為には、親となる人間が避けるべき物を知らねばならない。たとえ衝撃的であろうとも事実は報道されなければならない。核が軍事であり、その情報がどのように隠蔽されてきたか、影響が出ればどれ程シビアか、原発立地の大人が余りに無知なのに唖然とする。
差別は、又別の問題だ。
先天性であろうとなかろうと、或いは誰もが長生きの結果なりうる寝たきりの老人であろうと、身体に障害が在ろうとも自分らしく生きる事は、社会が保証すべき事だ。