皆さまのご意見・ご感想もお待ちしております。
============================================
報道写真とドキュメンタリー写真との違いについて考えさせられた。世界報道写真展で大賞に選ばれたアンソニー・スアウの写真は、ローン返済不能に陥った住民に対する住宅の差し押さえの様子を捉えた写真である。荒れ果てた室内を、拳銃を構えた保安官が、残った住民がいないかを確認している。確かに、2007年の米国での住宅バブルの崩壊から始まり、現在に至るまで続く世界同時不況の裏側で、震源地の米国ではこのような事態にまでなっていることをこの1枚の写真から知ることができる。報道写真とは、「時代」を映し出すことが目的であるように感じた。
しかし、広河さんのお話にある「人間の尊厳を問う」というDAYS JAPAN流の視点で考えると、上記の写真で銃口を向けられることになった人間や、金融ゲームの末に財産を失うことになった人間に対してカメラを向けるべきだという使命感のようなものが少しずつ芽生えてきた。もちろんアンソニー・スアウの写真のような視点で捉えた写真から、「こんなことが起こっているのに黙ってていいのか?」と逆説的に問うことも有りだとは思う。ただ、ドキュメンタリー写真として時間をかけて人間を追いかけるのであれば、村上春樹のイスラエルでのスピーチのように、「いつも卵のそばにいる」べきなのだろうと考えるように
なってきた。
四川大地震を伝えるのが中国人であり、インドのテロを伝えるのがインド人であった。二人の日本人が伝えたものは日本ではない。社会党の浅沼委員長刺殺の瞬間を捉えた毎日新聞の長尾靖さんは、日本を写して大賞をとっていたことを考えると、DAYS JAPANの写真展での広河さんの講評にもあったように、日本人が日本を撮って伝えることへの責任を感じた。
■世界報道写真展2009
http://www.syabi.com/details/wwp2009.html