DAYS JAPAN2月号の編集後記を読みました。
「罪を正当化できる罪はない。」とのシェロモー・サンド氏の言葉、その通りだと思います。
一方で私は、ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子氏翻訳の「夜と霧」も読みました。以下の文章に目が留まりました。
「・・・とくに、未成熟な人間が、この心理学的な段階で、あいかわらず権力や暴力といった枠組にとらわれた心的態度を見せることがしばしば観察された。そういう人びとは、今や開放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ。こうした幼稚な人間にとっては、旧来の枠組の符合が変わっただけであって、マイナスがプラスになっただけ、つまり、権力、暴力、恣意、不正の客体だった彼らが、それらの主体になっただけなのだ。この人たちは、あいかわらず経験に縛られていた。
このような事態は、些細なことをつうじて明らかになった。たとえば、ある仲間とわたしは、ついこのあいだ解放された収容所に向けて、田舎道を歩いていた。わたしたちの前に、芽を出したばかりの麦畑が広がった。わたしは思わず畑をよけた。ところが、仲間はわたしの腕をつかむと、いっしょに畑をつっきって行ったのだ。わたしは口ごもりながら、若芽を踏むのはよくないのでは、というようなことを言った。すると、仲間はかっとなった。その目には怒りが燃えていた。仲間はわたしをどなりつけた。
「なんだって? おれたちがこうむった損害はどうってことないのか? おれは女房と子どもをガス室で殺されたんだぞ。そのほかのことには目をつぶってもだ。なのに、ほんのちょっと麦を踏むのをいけないだなんて・・・」
不正を働く権利のある者などいない。たとえ不正を働かれた者であっても例外ではないのだというあたりまえの常識に、こうした人間を立ちもどらせるには時間がかかる。そして、こういう人間を常識へとふたたび目覚めさせるために、なんとかしなければならない。・・・」
私は、強制収容所で生死の境をさまよったことも、度重なる爆撃で家族を失ったこともありませんが、悲しんでいる人がいれば、慰めたく思います。
悪が悪を生み出す連鎖を止めなければなりません。これは、ジャーナリズムだけでなく、カウンセリング、精神医療、小説、音楽、演劇など、芸術までひっくるめた多くの人間の働きが必要だと思います。
蔦村的子
そしてイスラエルなど世界で起こる惨劇に対して、私はどうすればいいのか。この日本で。とりあえずはこの事実を広げていかなければいけないと思います。そして勉強しなければ。私達に公共機関で公に与えられる情報は非常に少ない。
話はそれますが、このあいだ、ちょっとした事件が身に起こり、不当な怒りをあてつけられました。ねじれて行き場のない怒りは誰にでも潜む可能性はあります。特に今の日本においては、このような怒りはたくさんうまれます。私達はそれを自分で解決していく強い精神力と、そして周りの粘り強い理解と、なんといっても相互努力と目をそむけない事が必要だと。そしてこの長く続かないと成功はなしえないこの努力が、世界に広がっていくようにしなければと、思います。一人では何もできなくても、人が集まれば伝える事も簡単になります。
話がずれてしまいましたが、何事も一歩づつの小さな行動の積み重ねですね。
表現者としても、様々なことを伝えられるよう、頑張っていきたいと思います。
まずは書き込むことで行動…。
それにしてもどうしたら、この悲しい怒りを止めることができるのだろうか。私も慰めたい。